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結婚までの徒然日記

幸せのゴール

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私の結婚式の時

珍しく、早起きをして、庭をまわった。
緑がいっぱいで気持ちが良い。とにかく、蕗だらけ、そのくらい蕗がはびこっている。何が何だか分からないくらいの庭になっていた離れの前。それでも、緑は気持ちがいい。母が生きていたころ、藤の木があり、母の誕生日が、4月25日であったので、藤の会、なんて称して、毎年誕生会をしていたっけ。亡くなったのが、95歳、その年は、どうしたかな――。ベットの上で、寝たまま、お客を迎えたような気がする。

その藤の木も古木となり、添え木ももろくなり、強風に倒れてしまった。健気にも、倒れたままで、いくつかの花を咲かせていた。

昔から我が家にあったカラ―と鉄線の花。
私の幼いころから、いろいろ思い出につながる花だ。

昔は、門の前に大きな水連池があった。その周りには、このカラ―(そのころは、かいゆ、といっていた).カキツバタ、ふとい、が咲き乱れていた。
夏は、この水連の花を、夕方とって、朝一番電車で母が、神田や浅草橋の生花市場に出しにいった。。農家の副業であったのでしょう。まだ西川口駅もなく、川口駅まで線路沿いを30分、歩いて行ったものでした。まあまあ、よく働いた両親でした。夏の時期しかできない仕事、とは言え、かなり大変な仕事でした。前にも書きましたが、、。水連は、夕方花がつぼむころ、深い池に入ってとるにです。葉、5枚、浮き葉、2枚、巻葉2本、花2本、これを大きな葉に包み、これで一人用。一パイと呼んでいました。50ぱいから、100ぱい位が毎日。そうですよね。市場に出すのですから。。
私も毎晩手伝いました。親子3人、結構楽しかったような気がします。
ご近所の母の友達の畳屋さんの奥さんが、もうお風呂上がり、浴衣を着て手伝いに来たりしてました。
今のようにテレビもない時代。遊びも自分で探さなくては無い時代。これも遊びのひとつ、おしゃべりしながら、やっていたような気がします。おじゃま虫をしてたかな?

西川口駅ができて今年は60周年とか。
確か私が、小学校5年生の時だったような気がします。それからは、母も幾分楽になったことでしょう。私も一度,生花市場に花を持っていったことがあります。
今でも夢のようで、朝のあの勢いのいい市場に、若い娘が、ちと、恥ずかしそうに花を届ける。たった一度だけなのに、強烈な印象で、今でも逆に夢であったかと思うことがあります。

鉄線、これも畑に、添え用の竹を立て、切り花用に作り、よく花屋さんが買いに来ておりました。、竹ごときっていくのです、細い弦の鉄線は、濃い紫の、7弁の花。
これも大好きな花でした。今は庭の隅に、ひょろりんとそれでも間違いなく、この時期には花を咲いて、楽しませてくれます。
私の結婚式の時、当時市長だった、大野さんの奥様が、<あの、細くても強い鉄線花のように!!>と祝辞を述べてくださいました。ほほ。あのころは、本当に細かったのです。今は、例えようもない太さになりましたが、、。

近所の花屋さんが切りに来る花々。カキツバタもかいゆも鉄線も、小梅桜、縞の太い、ハラン、まだまだありました。。ハスの池もありましたね
花屋さんが来て花を切り、縁側で、お茶を飲み飲みおしゃべりしていく、、よき時代でした。
あらあら、また昔語りになりました。

サア、とってきた、大きな三つ葉。
大きくてもとても柔らかそう。ゆでていただくことにいたしましょうか。

ゴールデンウイーク、後半。
娘は小笠原。旦那は、シーボ二ア。一人私は、何しましょうか。

日ごろの憂さを晴らしに、どこか、遠くにいきたいですね。


  知らない街を歩いてみたい  どこか遠くへ行きたい。
  遠い街、遠い夢、ただ一人  一人旅
  
  ほらほら、、またまた、、忘れましたよ、、歌詞を(笑)
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